その他史跡

大江賢次の文学碑

地元を代表する小説家「大江賢次」(昭和62年死去)。桝水高原には、彼の功績を称えた文学碑が建立されており、碑には、山陰地方の風土性が織りこまれた代表作「絶唱」の一節が彫り込まれています。

弁天さん(中島神社)

金屋谷から、大山寺参りの旧道を行くと左手に見える鳥居。その正面の額を見上げると「中島大明神」、そして鳥居をくぐり振り返ると「大弁財天」の文字。こちらは、地元では通称「弁天さん」で通用する中島神社のこと。今では、水利関係者が参るだけの寂しい神社になりましたが、過去6月1日の例祭日には、御神酒を杯に1ぱい宛振舞っても1斗樽の用意が必要だったといわれるほど、数多くの人が参っていたそうです。

大倉隧道と記念碑

谷川から大倉への道は、大山々麓に住む部落の人々が頻繁に利用する重要な交通網。しかしつづら折れになった妻(さい)の峠(たわ)は、人馬共に移動するのが困難であったため、篠田清蔵という人物が中心となって隧道開さくを決議。村人も協力して明治23年3月に起工、同年12月に竣工しました。規模は巾1.8m、高さ2.2m、全長174.5m。この間の経緯を記し、トンネル入口には、明治44年4月記念碑が建てられました。

大倉五輪塔群

播州から入城したと伝えられる大倉和泉守。居住していたのは、室町時代より当地にあった「もみうね城」で、結局は山名、尼子、毛利の三氏が占居し、五輪塔はこれら武将並びに一族の墓と推定されています。塔は、大きいもので2.5mが1基、2mが2基、そして1.4mが2基。他の20基はそれよりも小さく、これらは台地に散在していたものを、開田の際、現在の場所に寄せ集めたものです。

丸山代官所跡

冬の寒さ厳しい大山。丸山集落には、雪降り積もるこの期間だけ、役僧たちの生活場として、代官所・丸山御役所と呼ばれる大山本坊西楽院の里坊屋敷がありました。大山本坊西楽院の取り壊し(明治10年)とともに里坊屋敷も取り壊されたとされ、現在は「代官所跡」の碑を残すばかりとなっています。

丸山の道標・常夜燈(まるやまのみちしるべ)

大山信仰が盛んだった頃、岸本地区は出雲から大山寺への参詣道でした。「大智明大権現・下山大明神」の文字が彫られた大きな常夜灯や、三角形の自然石に「左大山」と掘られた道標が、今も当時をしのばせています。丸山集落には、このほか「利寿権現」、「丸山代官所跡の碑」、「安田万雪の句碑」もあるので、歴史ロマンを思いながら、ゆっくり散策してみるのが楽しいのかもしれません。

丸山神社の利寿権現 (りじゅごんげん)

思兼命、少彦名命を祭神に祀る丸山神社。境内にある稲荷神社の社殿は、1m四方とその造りは小さいですが、京都の名工作による八棟造りという立派なもの。昔は「利寿権現(本地仏は文殊菩薩)」と称えられ、近郷からも多くの信仰を集めていました。

安田万雪句碑(やすだばんせつ)

丸山集落に生まれた「安田万雪(1831~1900)」は、幕末時「大山侍(だいせんざむらい)」として大山領勝手役を務めましたが、俳人としても非凡な才能をもち、同区に寺子屋を開き文学も広めてきました。昭和40年に句碑を建立され、碑面には「稲妻や大竹薮に音もなし」という万雪の句が刻まれています。

古鍛冶発祥の地・大原安綱の碑

伯耆町大原、ここは平安時代の刀工、大原安綱(おおはらやすつな)による「大原鍛冶」の言い伝えで有名。安綱は、「太平記」に「伯耆国会見郡に大原五郎大安綱と云鍛冶・・・」と記されており、その代表作には大江山で酒呑童子を切ったという源氏代々の宝剣「鬼切」(国宝)があります。となりの丸山地区にはたたら製鉄跡もあることから、この地が古くより刀鍛冶の文化が盛んであったことを証明しています。

大蛇と大ムカデ伝説・大原千町・八幡さん(桜の名所)

地元特産の「八郷米(やごうまい)」で有名な「大原千町(おおはらせんちょう)」には、古来より「大蛇と大ムカデの伝説」が語り継がれています。これは、この地の守り神「大蛇」が、長年苦しめられた「大ムカデ」を退治してくれた「大躰神(だいだいじん)」さまへのお礼として、自ら過労で息絶えるのと引き替えに一夜で井手(用水路)を作ったというお話。この用水路は、後に大山からの清水を満面にたたえ、辺りを良質の水田とし、こうしてできた広大な農地は「大原千町」と呼ばれるようになったそうです。

小野小町の墓(伝)

クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美女のひとり小野小町。その絶世の美女のお墓が、ここ大山の麓、岸本地区の小町にあると伝えられています。墓とされる五輪塔は高さ1m足らずですが、その横に、「小野小町」と刻まれた高さ2.3mの石碑の姿が。噂では、五輪塔の一番上の石と二番目の石とをこすり合わせてできた石粉を顔につけると美人になる、そう言い伝えもあるので、興味がある女性は一度トライしてみてください。ちなみに男性には効果がないそうです。

越敷山・雨ごい地蔵 (こしきさん)

縄文時代から古墳時代と見られる、数多くの遺跡が発見された越敷山(こしきさん)山頂。その地にポツンと佇むお地蔵様では、古くより雨乞いの祈願が行なわれていたと伝わっています。ちなみに、現在この越敷山周辺の越敷野には、1999年春完成の県立フラワーパーク「とっとり花回廊」が誕生。何かと話題の多い観光エリアとして大きな注目を集めています。

七里茶屋跡

宿場町として栄えた溝口では、鳥取・松江の両藩のお茶屋と七里飛脚の宿がたまたま同じ建物に決められおり、一般的には、「七里茶屋」という呼び名で親しまれていました。文久2年より、出雲街道の宿場が旧会見町(南部町)天方に変更された関係で、宿は閉鎖。しかし鳥取藩は七里茶屋の建物を利用し、「溝口郷校」という庶民の上級教育の場として許可、しばしの間存続させました。

日野川・溝口の渡し

出雲街道で日野川を渡る公営の渡し場が米子市・旧溝口町・日野町の三か所にありました。これらの渡し場には、松江藩主が参覲交代で渡河する場合、米子深浦から船人が出張ってきたそうです。溝口周辺には、当時松江藩の「お茶屋」が置かれ、その名残か駅周辺には今も歴史を感じる古い町並みが残っています。

中祖一里塚

中祖地区の田園地帯に残る、出雲街道の「中祖一里塚」。明治10年代までは道の両端に石垣で囲んだ盛り土がありましたが、今は道の西側だけにしか残っていません。明治20年代までは、旅人たちがマツの木陰で弁当を食べたり、昼寝をしたり、またエノキの実を拾って食べたりするという憩いの場でもありました。

海蔵寺台地

伯耆松崎城城主でもあった進氏が、山腹を崩し、3町歩余りも造成した耕地。進豊前守幸宏が応永年間に開墾を始めてから天正3年まで、約170年間7代に渡り居住していました。その間、垂水(たるみ)権現神社と金剛山海蔵寺を建立しましたが、寺の本尊は慶長15年山下の光音院に遷されました。古老の話によると、垂水権現が明治45年庄神社に合祀されるまで、寺跡には観音堂があって、村人たちの間で毎年盆踊りが催されていたそうです。

長山馬籠(まごめ)

縄文時代早期から弥生・古墳時代にかけての複合遺跡で、鳥取県主要地方道、倉吉~江府・溝口線改良工事の際出土、昭和62年~63年に発掘調査が行われた場所。弥生時代中期の竪穴(たてあな)住居からは、漆塗(うるしぬり)小甕(かめ)、高坏(たかつき)、木質の詰まった袋状鉄斧、板状鉄斧が見つかり、周辺の同期の遺構(いこう)からは、丹塗(にぬり)長頸壺、高坏なども発見。当時世間の大きな注目を集めました。

赤岩神社(あかいわ)

上細見地区に鎮座する小さいながらも由緒正しい神社。びょうぶ状の大岩の下に建ち、古くから「赤岩権現さま」として、多くの地元民に親しまれています。

足羽家住宅

松江藩主松平氏の本陣と言われた足羽家は、もと越前国足羽郡に住み、朝倉氏に仕えていましたが、天正元年主家滅亡と共に旧溝口町二部の要害山へ来城、帰農しました。上足羽とは、本家足羽7代(初代助八)の代七右衛門が分家し、初代となったもので、3代平蔵から代々医を業とした医家として歴史を刻みました。その後10代の時、岡山県へ転出したため、その跡地を町が借り受け、生活改善センター、二部公民館を建設、同家に代々受け継がれた理念社会教育の拠点として活用されてきました。

福岡製鉄所跡(養老泉の煙突)

明治21年(1888)、根雨の近藤家が新しい蒸気機関を利用し、当時の数倍の増産を計画したという製鉄工場。鉄価の大暴落により、その幕を閉じることとなる大正10年に至るまで、たたら文化を担う地として数多くの歴史を刻みました。製鉄所のシンボルでもあった赤煉瓦造りの煙突は、閉山後、下代の名酒「養老泉」の造り酒屋に引き取られ、酒屋の煙を上げるとともに第二の人生をスタート。現在はそちらも取り壊されてしまいましたが、養老泉の白い文字が書かれた煙突は、当時より数多くの銘酒を生み、その歴史を刻んできました。

教育委員会事務局・生涯学習室
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