白鳳時代、日野川流域の大殿地区には大きな寺院(現在の福樹寺敷地内)がありました。この大寺跡地からは心礎・仏堂・回廊跡などが発見されましたが、特に「石製鴟尾」と呼ばれる物は、国の重要文化財にも指定されるなど、全国的に見ても非常に珍しい発掘物とされています。「鴟尾」とは、白鳳時代の寺院建築物の屋根を飾った火災よけ・厄よけに用いる装飾品のこと。“城に取り付けるシャチホコの始祖”とも考えられています。
日本の国と神々を産んだとされる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の子、祭神・速玉男命(はやたまおのみこと)を祭る福岡神社。その昔、速玉男命が熊野灘で遭難した際、大蛸に助けられ、無事吉備国(きびのくに)へと上陸。その後この地を訪れたという故事にちなんだ、奇祭です。通常は「たこさん」、「蛸大明神」として地元民に崇敬されています。
白鳳時代、日野川流域の大殿地区には大きな寺院(現在の福樹寺敷地内)がありました。この大寺跡地からは心礎・仏堂・回廊跡などが発見されましたが、特に「石製鴟尾」と呼ばれる物は、国の重要文化財にも指定されるなど、全国的に見ても非常に珍しい発掘物とされています。「鴟尾」とは、白鳳時代の寺院建築物の屋根を飾った火災よけ・厄よけに用いる装飾品のこと。“城に取り付けるシャチホコの始祖”とも考えられています。
鬼住山の麓にあった法幢寺(ほうどうじ)という廃寺の跡、宮原の富家大江宅福・宅教の父子がこれを惜しみ、矢倉要害の裾に再建したのがこの道寧寺。寺には、キリシタン大名池田輝政(シモン)以降歴代の位碑も安置されており、境内には、切支丹禁止令により「隠れキリシタン」となった信者たちが、仮托(けたく)として日本在来の石堂内部に密(ひそ)かに十字を彫刻、礼拝した名残が残っており、それがこの剣十字架石堂と伝わっています。
二部地区には、松江藩主松平氏の本陣といわれた足羽家があります。これは、出雲国の領主堀尾氏や米子城主中村氏が、参覲交代のため江戸の往き帰りに旅宿の本陣として足羽氏が提供した居宅のこと。堀尾氏に変わり藩主となった松平氏の時代にも、引き続き藩主の本陣にこの地があてられました。廃藩後は、旅宿の本陣も廃止になりましたが、明治以後度々庭園や屋内の間取りなどが改変され、昭和52年7月20日には、溝口町保護文化財に指定されました。
塔の心礎は、直径1.5m・厚さ25cmの石の中央部に、直径37cm・高さ10cmの円柱状の突出部があり、その中央に直径17cm・深さ5.5cmの舎利孔があります。このような凹凸式の心礎は珍しく、山陰では他に例がありません。しかし、現在ある場所は元の位置から移したものと考えられています。また、中央で二つに割れているのは、とても惜しまれます。単弁八葉蓮華文軒丸瓦は、伯耆国分寺のものとよく似ているところから、奈良時代後半に建てられた寺院と推定されています。
この古墳は、吉定の細見神社境内の山林の中にあります。このため、細見神社古墳とも呼ばれています。この古墳は円墳で、南に開口する横穴式石室があります。石室は割石を小口に積んだ構造です。玄室は奥行き5.65m・幅2m・高さ約2mで壁面にはベンガラと推定される赤色顔料が塗られています。構造としては、県下で最も古い横穴式石室である可能性が強く、また、この地方の古墳は九州との伝統的な交流による石室形態が主流ですが、この古墳は畿内的な要素を基調とする石室で、淀江町の長者平古墳石室とともに異彩を放つ存在です。
この古墳は、岸本古墳群の中で中核となる古墳です。ふき石・円筒埴輪をもち、周囲に溝をめぐらしてあります。
古墳の中腹の南側に石室の入口があります。内部は横穴式石室で古くから開口しています。石室の大きさは、玄室の奥月2.76m・幅2.3m・高さ2.3mで両袖に玄門があります。奥壁、側壁は一枚岩で組まれ、床面には奥壁よりに仕切石が立てられています。また、石室の一部には朱色が残っていて、石室内は酸化鉄を塗り、朱色に飾られていたことがうたがわれます。
この水路は、延長8.8kmあり、伯耆町中祖地内で日野川から取水し、宇代・小野の川平・金廻と断崖絶壁の中腹の岩盤に水路を開き、あるいは隧道を堀り、谷あいには築堤をつくり、長者原台地にいたっています。この水路を作る工事は、幕末に至って鳥取藩の在方長役 佐野増蔵の指揮監督と、地元の人たちの莫大な労力と資金の援助が実って、文久元年(1861年)にようやく開通しました。
この記念碑には、この事業にかかわった藩の奉行や下奉行・地元の役職の人の名が刻まれています。
平成30年5月1日告示 町指定天然記念物「椿」は、主幹が枯れたため残念ながら町指定を取り消しました。 【由来】昔、上代から久住谷を通り、久住(くすみ)、阿毘縁(あびれ)、出雲横田へ抜ける街道がありました。この久住谷の入口、鎌倉山城の出城があったともいう上代城跡付近。谷の向かいの出そねの裾が三差路になり、その道上が墓地になったこの場所に、椿の巨木があります。周囲2.2m、幹の途中から多くの枝が張り出し、まるで千手観音の手を思わせるような見事な形が神秘的。古くより多くの人の目を喜ばせてきました。